こんにちは。日本共産党八尾市議会議員 田中裕子です。

団ニュース特集記事”今あなたに伝えたいこと”被爆体験・核兵器禁止条約・平和への思い作成中。明日は広島へ。

[2017.8.15] -[活動トピックス]

谷沢議員(妥協を許さない鬼の編集長)と私(思いつきはするが文章が書けないアシスタント)で、団ニュースを作成中です。

今年は、核兵器禁止条約が採択された歴史的な年でもあるし、平和の特集記事を作ろうと決めました。

まず、八尾市への平和事業の聞き取り、非核宣言都市としての取り組みの強化の申し入れ、平和首長会議に出席した思いの聞き取りなど・・・。

そして、八尾市在住のヒバクシャの方から、子育て中パパと学生さんへ「今あなたに伝えたいこと」という特集記事を対談形式で作ることにしました。

まず、被爆者の方からの聞き取り。過去にも語り部をされており、記憶は鮮明です。過去の語り部での文章も残っています。

呉の空襲で命からがら逃げ出し、同級生はほぼ死亡、それから広島市内で原爆に。”この世界の片隅に”の映画の時代背景とほぼ同じなのでそれをイメージしながらお聞きしました。(なんと奇遇なことにお名前もすず子さん!)

だから、すず子さんでお話を進めていきます。

すず子さんは、三次市で生まれました。お父さんは刀自の仕事をされていましたが、体調を崩して呉に引越し、そこで学徒動員で勉強もできずに奉仕活動(仕事)をしていたそうです。

今日は大空襲があるらしいと噂が流れ、お母さんがみんなで一緒に死のうと言いましたが、軍国少女だったすず子さんは、「死ぬなら職場でと。」学徒動員の夜勤に行ったそうです。

その日やはり呉で空襲があり、自宅にいた同級生や町の人は、防空壕に殺到、入り込んだものの火が回り、ほとんど亡くなったそうです。井戸に入って、防火槽に頭を突っ込んだまま。

すず子さんは、職場で命拾いをし避難したといいます。多くの死体も見ました、初めての経験で無我夢中で逃げたといいます。

被爆体験を聞くつもりが、すず子さんは、呉の空襲の方が印象が強かったようで、長い長い話をしてくれました。

その後、しばらく仁方という駅で寝泊まりしながら働いていたそうですが、7月末にもっと仕事を覚えて欲しいということで、広島市内の牛田の国鉄の教習所に行かされました。寄宿舎です。

そこで被爆体験をします。

この時も前日から明日は新型爆弾が落ちると噂があって、その日も朝からみんな好きなところに行きなさいと言われたそうです。

しかし、すず子さんは行くところも無く、二階で日記を書いているところ被爆。

その建物は(2階建て)全壊したそうです。その倒壊した建物に閉じ込められたものの、近くにいた友人が「水、水〜」とさけんで海老反りになりそのまま亡くなったそうです。その子が目印となって、すず子さんは発見され、助け出されたました。

一階は完全に押しつぶされていたので、一階にいた人はまず助かっていないのではないかとすず子さんは回想します。「火の手も回ってきたしね。」と。

記事にするために場所を特定したかった私は、牛田の国鉄の教習所でインターネットで検索、出てこない〜。しかし、まったく同じ被爆体験が2件ほどヒット。同じ建物にいてた人ですねと驚き。

府立図書館で調査をしてもらってもわからず。広島の図書館か原爆資料館に相談したほうがいいかもと、さっそく連絡。

するとさすが広島!牛田の教習所の場所は特定できなかったものの、教習所の所長の記録証言があって、記述があるとのこと。(国鉄労働組合の文章の中で)でも文章は現地に行かないとコピーできない?!

ということで急きょ広島に保育所お休み中の末っ子と甥っ子で明日行くことにしました。唐突に。

この教習所は出たり入ったりの人が多く、誰がいてるのかはほとんどわからなかったそうです。すず子さんも7月末入ったばかりで被爆。うっすら覚えているのは、比治山に走っていったとか、太田川で泳いだとか、観音というところがあったとか、近くに孤児院があったとか・・・。

証言記録でしか記録が残っていないというのも寂しいですね。被害は甚大だっというのに。

話は続きます。倒壊した建物から助け出されたすず子さんは、それから避難を始めます。しかしそこは地獄でした。淡々と悲惨な情景を語るすず子さん。

聞いていた青年は、「私は、死を身近に感じたこともまだないので、当時どんな思いでしたか?」と聞いていました。

「そのときは、お国のために死ぬののだから、次は自分の番だと思っていた。冷静に受け止めていたとお思う。心がなかった。」と言われていました。

避難しているその時、爆撃機が上空を飛び撃ってきたというのです。未だ熱い地面に顔を埋めかがみ込んだといいいます。

原爆投下直後に爆撃機が襲ってきた?!そんな話は聞いたことがないなあ、何か記録があるのかなあとインターネット。すると朝日新聞の被爆証言の方が全く同じ体験をされていました。その方も牛田の教習所で被爆、逃げる途中で頭上を機銃掃射の爆撃機が通って、もうだめだと思ったと書いてありました。

B29が原爆投下をした記録や軌跡は米軍の記録にもありますが、その投下直後の被爆地で機銃掃射がなされていたという記録はありません。(私の調べた限りの不十分ですが。)そんなこともあったのだろうか。だとしたらひどい話だなあ・・・。明日原爆資料館に行ったら聞いてみよ…。と思っています。

今回、団ニュースを作らなあかんという仕事もありましたが、わたし的には、戦争体験の聞き取り記録を私なりの視点で作っていけたらなあと思っています。

特に、被爆体験は、現在情報収集や科学的分析の発達で、被爆体験とそれを重ね合わせることでよりリアルに実感を込めて次世代に伝えていくことができるのではと考えています。

その一歩として、出来るところから始めよう。まさか学生時代に過ごした広島の街にまた縁が・・・。

これが終わったら、夫のお母さんの満州引き上げの話を聞き取りをしなければ…。

明日の広島行きの弾丸ツアー・wtih 末っ子・甥っ子との道中記はおって報告しますねー。