こんにちは。日本共産党八尾市議会議員 田中裕子です。

被爆体験を聞く 忘備録

[2017.8.20] -[活動トピックス]

原本は「語りつぐ八尾の戦争体験」第2集 やお平和のための戦争展実行委員会でのp10『「水、水…」と倒れた友』

 

団ニュースの特集記事のために、再度聞き取りらせていただきました。

そのお話をもとに、当時の状況をさらに調査してみました。

7月に当時住んでいた呉で空襲にあう。当日学徒動員の夜勤で空襲の直撃は逃れられるが、惨状を目の当たりに。同級生の多数が死亡。

しばらく仁方駅に寝泊まりしながら働いていたが、さらに駅の仕事を覚えるようにと、広島市内の牛田の国鉄の教習所に7月末に1人で派遣をされる。

各地から集まってきており、知り合いは無く、食事も満足に無い状況で、大豆の搾りかすの味噌汁に具があったと思ったら、飛び込んだハエであった。

みんな空腹で元気なく、黙って座っていた。

まわりのことは全く分からず、観音町の孤児院の陸軍練兵場にやりつきの訓練に行ったり、比治山に走りに行ったり、太田川で泳いだ記憶はあるとのこと。

8月6日に被爆。当日、当時間、牛田の教習所、寄宿舎の2階で日記を書いていた。

原爆手帳には2.3kmとの記述。

原爆資料館で調べてもらうと、国鉄の教習所についての記述がある文献がありました。

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さすが原爆資料館!

『この怒りを 被爆60年特集 国鉄労働組合』p64から

なを、この原本となる資料は、昭和51年に全くの偶然から、別記「空襲被害状況」の貴重な一冊の資料が31年ぶりに広島鉄道病院で見つかったということです。

この資料は原爆の日、8月6日から2週間の広島鉄道教習所の状況が生々しく綴られているそうです。ザラ紙48枚、当時の状況、とくに入所中の書くか生徒名および救援作業内容が克明に記載。その一部を抜粋し掲載しているとのこと。

(注 国労広島被対協)

『この怒りを 被爆60年特集 国鉄労働組合』p64から

広島鉄道教習所長が鉄道総局勤労局長にあてた広島空襲繊細状況報告より

一部抜粋

 「当向島教習所ハ前夜ノ警報発令ニヨリ・・・位置が爆風中心ヨリ距タリタル為、屋根、戸小破、窓ガラス約3分ノ一ハソン・・・市内、牛田、白鳥、大芝等分教所相当ノ被害ヲ生ジタリ。」

建物被害状況の資料によると牛田は教室と寄宿舎は全壊となっています。

死傷関係は生徒と職員の死亡・重傷・中傷・軽傷・行方不明など書いてありますが、数字が読み取りにくいのでよくわかりません。

その中に、牛田教場という報告。

記述がカタカナなので要約を。

広島分教所女子電信科生徒および広島管理部開催の女子駅員講習生を収容していた。

校舎倒壊にために生徒の相当の死傷者発生。

この死体発掘および倒壊校舎の取り除く作業のため、3日間に一日平均38人が出勤。

作業の生徒の多くが炎天下のため疲労はなはだしく下痢患者が続出。なかには帰省・静養が必要な生徒も発生。

 

場所は、「被爆50周年誌 核兵器廃絶を願って 牛田ニュース」での牛田の教習所での証言をされている方の被爆した地点を記した「牛田町見取り図」があって、そこに当時の南町区の付近が場所として記されていたので、そこを参考にしました。(現在の牛田南2丁目付近)

現地に行ってみたのですが、全くの住宅地になっており、どこにあったのかは、よくわかりませんでした。

周りの家の方にも何人かおたずねしましたが、わからないということでしたが、あの高い建物が昔そうだったのではないかという話もありました。

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このへんか?わからない。

被爆体験をされた方は、倒壊した建物からその日のうちに救出され(海老反りになって立ったまま亡くなった友人が目印となって)、1週間ほど、青天井で、その地で寝泊りをしたそうです。

夜には油を使って死体を焼き始めていたそうです。その後、現地は死体の掘り起こし作業に忙しく、おにぎりの配布などがあったが、かまって貰うこともなく、1週間後には、母親の姉の実家である君田村に向かって芸備線に沿って歩き、途中で「骨だけでも拾いに」と広島市内に向かっていた母親に出会ったということです。(8月14日)

 

追記 1

なをこの被爆者の方を含め、牛田の教習所で被爆されている方の複数の証言の中で、8月6日の被爆直後から夜までの間に、頭上を米軍の艦載機(?)偵察機(?)が飛んでいるのを目撃されています。逃げまとったということです。

低空を飛んでおり、はっきりと飛行機が見えたということです。

そのことについて、原爆資料館の職員の方にお聞きしました。すると・・・。

「原爆投下部隊」という本で、攻撃時刻の6時間後までは一般の米軍機は半径50マイル(約80km)以内に立ち入ることは禁止されていたが、写真偵察機だけは立ち入りが許可されていて、2機の写真偵察機(任務377番、378版)が、攻撃機離陸の4時間後にティニアン基地を発った。キノコ雲も撮影しているということです。

沖縄の第6写真軍団の写真偵察機も広島上空に飛来し、原爆投下後の市街地を撮影しています。(8月7日撮影米空軍歴史資料室)

 

被爆直後、少なくとも4時間以降は写真偵察機が被爆地上空を飛んでいるようです。爆心地付近は煙で暗くて近寄れなかった可能性は高いですが。

牛田上空は十分に可能でしょう。

しかし、この時間帯の牛田では、被爆証言によるとまさに惨状がおきていました。

そんな様子を撮影した米軍の写真は未だでてきていません。

学生の頃、広島で被爆者の方が、「米軍機は被爆直後に市内上空を飛んでいて、あの惨状を上空から低空で撮影しているはずだ!」と言われていたのを急に思い出しました。

誰か研究者の方や平和活動家の方など調査されているのでしょうか?

気になるところです。

 

追記 2

牛田の国鉄の教習所があっただろうところの近くに牛田公園があり、原爆の牌が残っています。

原爆資料館で見せていただいた「牛田町誌・牛田ニュース」によると

牛田町の家屋被害は、全壊が30%、阪堺が66%、小壊・無事は4%ということです。

その後も牛田には被爆した人々の避難が続き、8月末には牛田の人口の2割が増加、食料不足はますます深刻な有様になったということです。

この牛田公園は、急きょ火葬場と化し、たくさんの人が焼かれたということです。

山隅衛さんという方が、その時にこの混乱の中で牛田で息絶えた人を大八車に乗せ、火葬場へと化した牛田公園に運んだ人がいて、その人ののことを歌に読んでおられます。その歌が当時の状況がよくわかるので、紹介したいと思います。

    世話好きの清水のおじが日ごと夜ごと

           やきたる屍(かばね)6百を越(ママ)ゆとふ 

 

この公園を見て行きたかったけど、一緒に現地に行っていた、末っ子の体調と元気が限界だったので、バスで広島駅に向かいました。

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 甥っ子におんぶして移動中の末っ子。頼りになる甥です。

その後、JR広島駅の救護室で吸入をさせていただきました。ありがとうございます。おかげで大阪までこだまに乗ってゆっくりと体調も良く帰ることができました。

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お盆の帰省の影響で、”ひかり”も”のぞみ”もものすごい混みようだったのですが、”こだま”はこのとおり。

岡山で乗り継いで4時間かけて帰ったけど、あの混雑を思うとベストな選択だった。新幹線の岡山駅のホームのうどんももっちもちで美味しかったし。

 

私の自分のための一日だけの夏休み。日帰り広島の旅でした。