こんにちは。日本共産党八尾市議会議員 田中裕子です。

選挙が終わりました。無事四期目をむかえさせていただきました。

[2011.5.7] -[活動トピックス]

4年に一度のいっせい地方選挙が終わりました。無事4期目をむかえさせていただきました。公約実現のためがんばります。

今回の選挙では、選挙期間中に父親が急逝しました。多くのかたに心配をしていただき、またその死を悼んでいただき本当にありがとうございました。

そろそろ私もあきらめがついてきた頃合いなので、そのときの気持ちを整理しておきます。

父親は教師生活40年以上、「教え子を再び戦場に送らないと」信念を持って、教職につきながら組合活動、日本共産党の活動をしていたようです。だから家にはあまりいませんでした。

母曰く「うちは母子家庭やからな」そんな母親も教師をしており、私は女性が働くなら結婚はしない、子どもは産まんとこと思いましたが、その信念はあっという間に吹っ飛び現在議員生活しながらの3人の子持ちで

す。しかも夫の実家と私の実家に多大な援助を受けながら・・・・。

父親は退職後私の援助に入り、空気のように私の周辺にいました。

選挙の告示日から2日目、いつもの朝の駅の宣伝行動で朝一番に駅に立ち、他の候補者を追っ払っていた父親の姿が見えず、「あれ、おかしいな。」と思いつつ、候補者カーに乗り込み出発をしたところ、事務所から

連絡が入りました。

「お父さんが倒れたから、すぐに病院へ向かって」

候補者カーから飛び降り、自分で車を運転できる状態ではなかったので、夫に早退をしてもらい車で病院へ向かいました。

その間の断片的な情報の中で、本人が頭痛を訴え、救急車を呼ぶように言ったということ、病院からの母親の電話では比較的落ち着いていたと言うこと、救急車で搬送されて病院に着くまではだいたい30分程度で

あったらしいことから、命に関わる事態にまで発展するかどうかピンときませんでした。

しかし、病院について母親の話をきいていると、一番ピンときていないのが母親だと言うことが判明。

父親が早朝の倒れる直前まで作成していた候補者カーの運行表を今日の行動に困るだろうと事務所に送っていたこと、救急車の中でもそんなに重大な事態だと思っていなかったこと、だから私にも連絡していなか

ったことがわかりました。

病院に搬送時は、意識なく、呼吸停止、なんとかレベルは一番最悪の300であり、なんかの手術にはいっているということで、とにかく終わるまで待っていました。

手術が終わり、父親が運ばれてきました。人工呼吸器はつけているもののメスもいれてなくそこに寝ているようでした。

先生の話を聞いていると、だんだん深刻な状況ではと感じてきました。

典型的なクモ膜下出血であること、脳幹から小脳にむかう大動脈にこぶみたいなのができておりそれが破裂したこと。メスを入れらる場所ではなかったので、カテーテルでコイルなんとかをしたということ。

先生のお話では、二度目の再破裂を防ぐ手術が終わったということ、しかしこれから次から次へと難関が待ち受けているということ、二週間後にどうなっているかは、現時点では判断できないこと、なによりも一回目

の出血の時の状態が全てを決めるということを伝えられました。

とにかく関東で暮らしている弟に、とにかく帰ってきて父親に生きているうちに会わせておかなくてはと連絡をいれました。この判断はあとから思うと懸命でした。

この日は、手術後一定今後の予測を聞いてから八尾に戻り候補者活動に戻りました。ある程度覚悟はしながらでも半信半疑という状態でした。

次の日の朝、病院から連絡があり、また候補者カーをおりて病院に。早朝血圧が急激に低下をしたこと、頭の水を抜かなくてはいけないと言うことを伝えられました。

えらい事態が早く進行しているなと思いながら、父親の姿を確認してから八尾に戻り候補者活動を継続。

次の朝、また母親とおばさんが病院に呼び出されていました。お昼に私に話があるとおばさんから申し出があり、「ゆうこ、よう聞きや、あんたのお父ちゃんは、脳死の状態やそうや、どうする」ときかれたのでこのままで

は、気持ち的にも演説も出来ないので夫にまたもや早退してもらい一緒に病院へ向かい先先から直接話を聞くことになりました。尿毒症(?)がでているかして顔がずいぶんはれて、頭から水を抜く管がありました。

結論からいうと「脳幹部分は真っ白で、血圧も安定していない。数日中か一ヶ月・・・?わからない。また、病室を移して24時間付き添いも出来るがその移動中にもあかんようになるかも、」ということでした。

せめて、投票日まではがんばってほしいと思いつつ、でもこれ以上メスを入れたり体に変化があるのはいやだと思いながら、病院をあとにしました。

その晩は一睡も出来ませんでした。やっぱり朝方病院から電話がかかってきて容体が急変したからすぐにきてほしいと言うことでした。

今度はタクシーで病院に向かいました。

娘の言うことはたいてい聞いてくれる父親だったので投票日まではがんばってくれるかなあと思っていましたが、やっぱりよっぽどしんどかったのかだめでした。22日朝の7時23分、投票日の2日前でした。

その晩の演説会でこのことを伝え、三日お通夜で投票日の夜お通夜、次の日に告別式を行いました。たくさんの方々にお参りいただき本当にありがとうございます。

私の当選と議員団全員当選を報告ができました。

最後、霊柩車で焼き場に向かうときには八尾中学校の前で警笛(?)をならしていただきありがとうございます。地元の葬儀会社にしてよかった。ちなみにうちのおばさんが祭壇をかなり値切ったようですがありがとう

ございました。

本当にばたばたした中であっという間の出来事であり、悲しむ間もない中お骨になった父親と対面しました。

もうこうなったらあきらめるしかありません。

GWには弟の結婚式も強行し、まさに冠婚葬祭いっぺんに行いました。

もっと健康に気を遣ってあげたら防げたのかそれとも不可抗力だったのかわかりませんが、もっと父親を大事に、優しくしてあげたらと思います。最後の最後まで私のために働かせてしましました。

同じ失敗を繰り返さないよう母親と人間ドックで次々と異常がみつかるうちのダンナをもっと大事にしようと思いました。

父親へのお供え物は、毎日のように御菓子が増えていきます。生きていたらこんなん食べたら太るからあかんやろうと激怒していたものばっかりですが、今はしゃあないとお父さんの替わりに私が食べています。

気持ちの整理がついてきました。今度はこの記憶を失わないように大事にしていきたいと思います。