こんにちは。日本共産党八尾市議会議員 田中裕子です。

7月24日 八尾ファミサポ事故から子育て支援制度の問題点を検証 子どもの命と安全を考えるつどいに出席して

[2011.7.29] -[インフォメーション活動トピックス]

事故の概要説明が当事者である親御さんから報告がありました。

八尾市の「ファミリーサポートセンター」(以下ファミサポ)事業で、当時5ヶ月だった子どもさんをあずけた結果、援助会員宅で、うつぶせの心肺停止状態で発見。

母親の通院のための一時間の依頼中のことでした。

援助会員は泣き出した赤ちゃんをうつぶせに置き、心肺停止で発見されるまでそのままの状態だったと述べています。

市立病院に搬送されましたが、現在に至るまで脳死状態との説明を医師から受けておられるということです。

事故後、事業実施者である市と、その事業の委託を受け運営をしている社会福祉協議会との話し合いを持っておられますが、

援助会員の話が時間とともに次々と変化、ついには話し合いの当日欠席。そして市と社協から突然、援助会員がファミサポの紹介で弁護士と契約したので話し合いができなくなったと説明をされたということです。

しかも年度が替わった今年の4月には、ファミサポの会則がいきなり変更になり「問題発生時は個人で解決すること」という記述が新たに追加されていました。

さらに市立病院の医師は、救急隊も医師も「窒息」と考え処置をしていたにもかかわらず、入院後のさまざまな検査の中でRSウィルスがでたとして一転それが原因であったとされたことが判明。

その疑問を医師に尋ねると「窒息の可能性はあるが立証が難しいため、RS、病気にしておいたほうがみんなにとって幸せと考えます。」という説明でした。これでは事故の状況解明を妨げていしまうと危惧を抱かれたということです。

八尾市のファミサポ事業は国(厚生労働省)の制度を活用して市が社会福祉協議会に委託をしています。援助会員はファミサポから育児に必要な講習を受けたうえで登録され、活動をおこないます。

しかし、今回乳児を預かる上での危険に関する知識、うつ伏せ寝の危険に関する知識や安全管理など研修がされていたのでしょうか。

さらに、事故が起こった際も行政の立場と責任をあいまいにするようなシステムで、事業として実施する上で欠落している部分があるのではないでしょうか。

事業を実施している行政が責任を持って事実関係を調べ、事業にあり方を見直し、問題点を正していくべきです。

このような悲劇がくりかえされるシステムに疑問を持ち、多くの人に知っていただき、安全な保育と子育て環境を考えるために問題点を検証したいと報告がありました。

つづいて西 晃弁護士からお話がありました。

ファミサポ事業はそもそも相互援助の制度であり、民法上の準委任契約であるということ。

当事者間に援助活動をゆだねてしまう恐れのある特質を持つこと。

行政は調整はするけど責任は負わないという傾向にあること。

しかし、その契約の中身から発生する問題があり、それは、子どもの命を預かるという行為であり、その実施主体主が行政であるということである。

そのことから規制・水準が生じるのではないかという問題提起がされました。

しかも、八尾市の対応として、援助会員に弁護士がついたからといって、市と社協が話し合いに参加できないというのは、筋の通らない話であり、法的な根拠も何もないということでした。

また、国も無関係ではなく、責任はあるという観点も必要ではないかとありました。

命・健康・医療・教育などは、本来規制緩和、有償ボランティアなど一定排除されるべきであるとおっしゃられていました。

子育て新システムは、児童福祉法24条の保育の直接実施の責任をなくすものであり、”子どもを細切れ時間であずかり、それに対応した労働形態も導入される”恐るべき制度であり、

保育のプロの目を育て、発展させることと真っ向から反対のものでスト報告がありまし

た。

フロアー発言では、平成21年に大阪市の認可外保育所で4ヶ月の赤ちゃんを事故で失ったご両親と弁護士さんから報告がありました。

大保連からは、新システムのねらいとその露払いとして、最低基準の緩和がなされようとしており、パブコメが実施されているということ、療育の分野での改悪もたくらまれていることが報告されました。

ある保育園であった話で、子どもさんが熱が出たので連絡したら、ファミサポの会員が迎えにきたが、子どもとも初面識だったということで、引き渡すことを拒否したら、援助会員さんも「そちらに判断してもらえてありがたい」とのことだったということです。

産経新聞の若い記者さんからの発言もあり、自分がこれらの事故を調べていくにつれて、表に出ているのは本の氷山の一角であり、泣き寝入りがほとんどであり記者としてこれらの問題を取り上げて生きたいといわれていました。