こんにちは。日本共産党八尾市議会議員 田中裕子です。

おいもほりをしました。大雨の日に

[2011.5.30] -[活動トピックス]

観測史上でもかなり早い時期に来た台風2号が接近する中、民商さんのおいも掘りが強行されました。

大雨が降る中、ドロドロ、テントの屋根には雨水が大量にたまり、時々その水をつついて落とし・・・。

しかし、子供たちは大喜び。

靴を脱いで、泥に足をツッコミ、じゃがいも探し!

DSC_0014-2.JPG

DSC_0013-2.JPG

しばしの休日でした。

 

議会の役割分担が決まりました。

[2011.5.19] -[インフォメーション]

日本共産党市会議員団の議会での配置は次のとおりです。

 

総務常任委員会      大野義信と田中裕子

建設・産業常任委員会   内藤耕一(副委員長)

文教常任委員会      谷沢千賀子

保健福祉常任委員会   杉本春夫と越智妙子

 今年から文教産業常任委員会から産業が離れ、建設委員会に合体しました。

 

  農業委員会委員     内藤耕一            

  八尾市柏原市火葬場組合議会議員      谷沢千賀子

  大和川右岸水防事務組合議会議員      大野義信

  恩智川水防事務組合議会議員        杉本春夫

  都市計画審議会委員              越智妙子  

  町名地番改正審議会委員            大野義信

  スポーツ施設運営審議会委員         田中裕子

  大阪・八尾両市行政協力協議会委員     内藤耕一

  社会教育委員                    田中裕子

  図書館協議会委員               大野義信

  国民健康保険運営協議会           内藤耕一

  人権尊重の社会づくり審議会委員       谷沢千賀子

  生涯学習センター学習プラザ運営審議会委員    杉本春夫

  議会だより編集委員会委員          谷沢千賀子

  八尾河内音頭まつり振興会役員       田中裕子

  国際交流センター評議員            越智妙子

 

P5170157.JPG

夕立の後うっすらと虹が出ていました。わかりますか?

P5190159.JPG

八尾市内にもこんなところが!教育サポートセンターのすぐ近くです。

各会派が決まりました。

[2011.5.16] -[活動トピックス]

各会派のメンバー構成が決まりました。

日本共産党は改選前と同じく6議席です。

自民・改革が10人。

公明が6人。

あと二つ会派があってそれぞれ3人と2人です。

無所属議員さんが1人。

今回、5人の新人議員さんは、選挙の時は無所属を名のられていたのに、当選したら会派は自民党!?

有権者にとってわかりにくいですね・・・。

民主と名のる会派はなくなりました。大阪市議会でも堺市議会でもそうです。

名は体を表すと言います。

日本共産党は党が出来て88年。名前を変えず、かくさず活動をおこなってきました。それは国民を裏切ったことがないからです。

日本共産党以外の政党が侵略戦争に賛成し、翼賛政治がおこなわれたときも、唯一命をかけて反対を貫いた政党です。

戦後日本の政治では、32年前から原発の危険性を追求し、アメリカいいなり、大企業優遇の

ルールなき資本主義をただしてきました。

名前というのは、その政党の歴史を表すものなんですね。

「名前を変えたらどうか」とよく前進してほしいという好意から意見をいただきますが、この名前に込められた歴史を知っていただくことが日本共産党への理解を深めることになると思うんです。

どうでしょうか。

 

 

次々と病に・・・

[2011.5.16] -[活動トピックス]

父親が急逝し母親がまいっている中で、夫が入院。次は三女が保育園でプール熱に感染し登園出来ず!私の仕事はどうなるのだー!

実家の助けが、夫の助けがどれだけ大切か思い知らされています!

自力でがんばってる人はえらすぎる!

でもお母さん、無理しすぎないでぼちぼち行きましょう。自分の体が第一ですものね。

周りには迷惑かけるけど。

2009 デジカメ 5月25日 001.jpg

お父さんの子育て奮闘記!次女は今年小学一年生になりました。この頃はまだ保育園。

ちなみに、先週私も彼女も初めての遠足の日にちを間違えてリュックを背負って学校へ。

彼女は泣きながら家に帰って来て、「お母さんランドセルいるわ」といってランドセルをしょって、また学校へ走っていきました。

私はとおかしくておかしくて笑い転げてしまいました。ごめんね!

 

八尾市の施策と予算に対する緊急要望を行いました。 2011年5月11日

[2011.5.12] -[活動トピックス]

5月11日に日本共産党市会議員団で

八尾市に対する施策と予算に対する緊急要望を行いました。

P5110154.JPG

対応は原副市長さんでした。

内容は以下の通り

                         2011511

八尾市長 田中誠太 殿

                  日本共産党八尾市会議員団

                  団長     越智 妙子 

八尾市の施策と予算に対する緊急要望

 東日本大震災が起きて、すでに2カ月経ちました。この間、八尾市でも多くの消防署職員や水道局職員が被災地に赴き、救援復興に貢献されたことに、心から敬意を表します。また、市民から寄せられた募金や救援物資をいち早く被災地に配送するなど、改めて自治体の果たす役割の大きさを痛感した次第です。

八尾市でも東南海、南海地震がいつ起こるかわからないという不安の中、今回の一斉地方選挙では安全安心の街づくり、福祉や暮らしの充実が大きな焦点となりました。日本共産党議員団は、以下の公約実現に全力上げることを表明するとともに、八尾市として、早急に具体化されることを強く要望いたします。

1.      八尾市地域防災計画の見直しを早急に行い、消防署職員の増員などを計画的に進めること。

2.      幼稚園、小学校、中学校の耐震化を、一日も早く100%にするための対策を講じること。すべての公共施設の耐震化を進めること。

3.      民間木造住宅の耐震補強助成制度の対象を20件から2000件に引き上げるため、予算を抜本的に増額すること。

4.      国民健康保険料を引下げ、低所得者減免を復活させること。

5.      子ども医療費助成制度の対象を、中学校卒業までに拡充すること。

6.      400人を超える待機児童を解消するため、公立、私立保育所の増設に取り組むこと。

7.      全国では8割を超える自治体が実施している中学校給食を、八尾市でも早急に実施すること。

8.      全小中学校の普通教室に、早急にクーラーを設置すること。

以上

llll5月1日メーデー参加と憲法記念日宣伝

[2011.5.7] -[活動トピックス]

5月1日はメーデーでした。朝会場に向かう途中、今年二十歳になった近所の子と話をしたら「メーデーってなんですか」と聞かれました。

私は、答えに困ってしましました。みなさん、一分で説明出来ますか。私は思わず「お祭りかなあ」と馬鹿なことをいってしまい、日頃組合活動をさぼりまくっている夫にさえ馬鹿にされました。

こころ入れ替え勉強します。

P5010136.JPG

買い物公園にて団長が挨拶中。私はテントの中の一番右です!

P5010140.JPG

趣向を凝らしていろいろ創作されていました。真ん中のが優勝したらしいです。

P5010142.JPG

会場をあとにし、行進へ。いつもは父親が私の専属カメラマンでした。これからは自分で撮影か・・・。それか現場で即席カメラマン育成か!?

5月3日は憲法記念日。今年は万代前で宣伝をしました。

P5030144.JPG

顔がはれてます。ごめんなさい。

P5030148.JPG

お疲れ様でした。

就学援助の申し込み 5月31日まで お忘れなく

[2011.5.7] -[インフォメーション]

今年の就学援助の申し込みがはじまっています。年々増加している就学援助申請、それだけ経済的に大変な状況の家庭が増えてきているということです。

どしどし申し込みしましょう。当事務所にも用紙あります。

選挙が終わりました。無事四期目をむかえさせていただきました。

[2011.5.7] -[活動トピックス]

4年に一度のいっせい地方選挙が終わりました。無事4期目をむかえさせていただきました。公約実現のためがんばります。

今回の選挙では、選挙期間中に父親が急逝しました。多くのかたに心配をしていただき、またその死を悼んでいただき本当にありがとうございました。

そろそろ私もあきらめがついてきた頃合いなので、そのときの気持ちを整理しておきます。

父親は教師生活40年以上、「教え子を再び戦場に送らないと」信念を持って、教職につきながら組合活動、日本共産党の活動をしていたようです。だから家にはあまりいませんでした。

母曰く「うちは母子家庭やからな」そんな母親も教師をしており、私は女性が働くなら結婚はしない、子どもは産まんとこと思いましたが、その信念はあっという間に吹っ飛び現在議員生活しながらの3人の子持ちで

す。しかも夫の実家と私の実家に多大な援助を受けながら・・・・。

父親は退職後私の援助に入り、空気のように私の周辺にいました。

選挙の告示日から2日目、いつもの朝の駅の宣伝行動で朝一番に駅に立ち、他の候補者を追っ払っていた父親の姿が見えず、「あれ、おかしいな。」と思いつつ、候補者カーに乗り込み出発をしたところ、事務所から

連絡が入りました。

「お父さんが倒れたから、すぐに病院へ向かって」

候補者カーから飛び降り、自分で車を運転できる状態ではなかったので、夫に早退をしてもらい車で病院へ向かいました。

その間の断片的な情報の中で、本人が頭痛を訴え、救急車を呼ぶように言ったということ、病院からの母親の電話では比較的落ち着いていたと言うこと、救急車で搬送されて病院に着くまではだいたい30分程度で

あったらしいことから、命に関わる事態にまで発展するかどうかピンときませんでした。

しかし、病院について母親の話をきいていると、一番ピンときていないのが母親だと言うことが判明。

父親が早朝の倒れる直前まで作成していた候補者カーの運行表を今日の行動に困るだろうと事務所に送っていたこと、救急車の中でもそんなに重大な事態だと思っていなかったこと、だから私にも連絡していなか

ったことがわかりました。

病院に搬送時は、意識なく、呼吸停止、なんとかレベルは一番最悪の300であり、なんかの手術にはいっているということで、とにかく終わるまで待っていました。

手術が終わり、父親が運ばれてきました。人工呼吸器はつけているもののメスもいれてなくそこに寝ているようでした。

先生の話を聞いていると、だんだん深刻な状況ではと感じてきました。

典型的なクモ膜下出血であること、脳幹から小脳にむかう大動脈にこぶみたいなのができておりそれが破裂したこと。メスを入れらる場所ではなかったので、カテーテルでコイルなんとかをしたということ。

先生のお話では、二度目の再破裂を防ぐ手術が終わったということ、しかしこれから次から次へと難関が待ち受けているということ、二週間後にどうなっているかは、現時点では判断できないこと、なによりも一回目

の出血の時の状態が全てを決めるということを伝えられました。

とにかく関東で暮らしている弟に、とにかく帰ってきて父親に生きているうちに会わせておかなくてはと連絡をいれました。この判断はあとから思うと懸命でした。

この日は、手術後一定今後の予測を聞いてから八尾に戻り候補者活動に戻りました。ある程度覚悟はしながらでも半信半疑という状態でした。

次の日の朝、病院から連絡があり、また候補者カーをおりて病院に。早朝血圧が急激に低下をしたこと、頭の水を抜かなくてはいけないと言うことを伝えられました。

えらい事態が早く進行しているなと思いながら、父親の姿を確認してから八尾に戻り候補者活動を継続。

次の朝、また母親とおばさんが病院に呼び出されていました。お昼に私に話があるとおばさんから申し出があり、「ゆうこ、よう聞きや、あんたのお父ちゃんは、脳死の状態やそうや、どうする」ときかれたのでこのままで

は、気持ち的にも演説も出来ないので夫にまたもや早退してもらい一緒に病院へ向かい先先から直接話を聞くことになりました。尿毒症(?)がでているかして顔がずいぶんはれて、頭から水を抜く管がありました。

結論からいうと「脳幹部分は真っ白で、血圧も安定していない。数日中か一ヶ月・・・?わからない。また、病室を移して24時間付き添いも出来るがその移動中にもあかんようになるかも、」ということでした。

せめて、投票日まではがんばってほしいと思いつつ、でもこれ以上メスを入れたり体に変化があるのはいやだと思いながら、病院をあとにしました。

その晩は一睡も出来ませんでした。やっぱり朝方病院から電話がかかってきて容体が急変したからすぐにきてほしいと言うことでした。

今度はタクシーで病院に向かいました。

娘の言うことはたいてい聞いてくれる父親だったので投票日まではがんばってくれるかなあと思っていましたが、やっぱりよっぽどしんどかったのかだめでした。22日朝の7時23分、投票日の2日前でした。

その晩の演説会でこのことを伝え、三日お通夜で投票日の夜お通夜、次の日に告別式を行いました。たくさんの方々にお参りいただき本当にありがとうございます。

私の当選と議員団全員当選を報告ができました。

最後、霊柩車で焼き場に向かうときには八尾中学校の前で警笛(?)をならしていただきありがとうございます。地元の葬儀会社にしてよかった。ちなみにうちのおばさんが祭壇をかなり値切ったようですがありがとう

ございました。

本当にばたばたした中であっという間の出来事であり、悲しむ間もない中お骨になった父親と対面しました。

もうこうなったらあきらめるしかありません。

GWには弟の結婚式も強行し、まさに冠婚葬祭いっぺんに行いました。

もっと健康に気を遣ってあげたら防げたのかそれとも不可抗力だったのかわかりませんが、もっと父親を大事に、優しくしてあげたらと思います。最後の最後まで私のために働かせてしましました。

同じ失敗を繰り返さないよう母親と人間ドックで次々と異常がみつかるうちのダンナをもっと大事にしようと思いました。

父親へのお供え物は、毎日のように御菓子が増えていきます。生きていたらこんなん食べたら太るからあかんやろうと激怒していたものばっかりですが、今はしゃあないとお父さんの替わりに私が食べています。

気持ちの整理がついてきました。今度はこの記憶を失わないように大事にしていきたいと思います。