こんにちは。日本共産党八尾市議会議員 田中裕子です。

戦争史跡や資料をどう次世代に”つなぐ”のか 個人質問調査にあたって 忘備録①

[2017.8.28] -[活動トピックス]

今回の9月議会での質問では、時間があまりさけませんが、調査段階で非常に大切だと思ったので記録にとどめておきます。

まず、今回の質問を取り上げるきっかけは、団ニュースの特集のために被爆体験を聞き、それを記録と照らし合わせるために原爆資料館を訪問したことです。

広島では、原爆の惨禍の事実を各町目ごとに詳細に市史として残しており、その他原爆に関する記録や出版物など所有していて、たいていのことは調べることができる状態でした。

八尾ではどうでしょうか。

実は、八尾では1984年からやお平和のための戦争展実行委員会が戦争展をやっており、市民レベルでの戦争の記憶、資料、史跡の調査がなされています。

「語りつぐ八尾の戦争体験」(八尾図書館所蔵)に詳細。

久宝寺に当時あった旅館に特攻隊員が宿泊し、遺書を書いており、その旅館の女将と遺族の親族さんが戦争展で面会をするなどドラマがあります。

その後も、墓石の調査を行い、身近にある日常の中で戦死者を実感することや、大正飛行場や八尾枚方線が戦争中につくられたものや、垣内の掩体壕など明らかにし、戦争展で発表されてきました。

同時に「日常の中の戦争遺跡」という本を書かれた方もいて、ち密な調査と当時の証言・記録と記憶を重ね合わされています。(八尾図書館所蔵)

八尾市でも戦争の記憶という冊子が発行されており、その中身が反映されています。

しかし、その資料や遺跡などが個人の努力では保存や維持や次世代につないでいくことに課題が出ています。

なにが今必要かさらに深く調査をしていきたいと思います。

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垣内の掩体壕

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戦争展の歴史や調査内容を教えていただく

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八尾市の冊子。なかなか読み応えあり。市民活動の蓄積が反映されている。

明日は、「日常の中の戦争遺跡」の著者にお話を聞く予定です。

議員団ニュースNO.250 質疑・個人質問

[2017.8.28] -[インフォメーション]

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9月5日から7日に質疑・個人質問をします。

[2017.8.28] -[インフォメーション]

95日(火)

質疑 谷沢千賀子議員(11時20分ごろ) 

社協に認定こども園を運営させるための補助金、旧西武・新八尾駅前商業ビルへの税金投入

竜華コミセン跡地に平成30年度に民間の認定こども園オープン予定が、社会福祉協議会に補助金をだし、公私連携型認定こども園を平成31年度に開設することになった。

その経過と待機児童計画と今後について。急きょ、旧西武・新八尾駅前商業ビルの一部をかりあげ、コンサルに3千5百万円で委託し、その中身も丸投げすることについて。他。

一般質問2番目・田中裕子(午後2時すぎ) 

平和・戦争史跡、ファミリーロード前の立体駐車場と旧西武・新八尾駅前商業ビルについて

核兵器禁止条約の批准を日本政府に求めよ。

垣内の円たい壕など戦争に関わる記録、資料、史跡を次世代に引き継ぐための提案。

ファミリーロード入り口にある立体駐車場をめぐる問題と旧西武・新八尾駅前商業ビルへの税金投入について。

96日(水)

一般質問4番目・大野義信議員(午後2時ごろ)

国保料の統一化・府の福祉医療制度・カジノ付き万博

国民健康保険の「府内統一化」によって、保険料が値上げとなるのに、市長が「値下げ」と公言している根拠について質問。市独自の減免制度を守る立場に立つことを求める。

大阪府「福祉医療費助成制度」の障害者医療の負担増と八尾市独自の入院時食事負担制度の廃止と老人医療全廃で結核と精神通院が対象から外れることについて。

カジノ付き万博についての八尾市の考え方について

97日(木)

一般質問   1番目 越智妙子議員(10時から)

待機児童解消計画が破たんにもかかわらず、認定こども園計画は強行

保育の見込み量や確保の中間見直しがおこなわれ、待機児童が解消されると計画上はなっている。

しかし、“超つめこみ”や”地域偏在“など矛盾がある。このままでは来年度からも待機児童があふれかえる状況になる。

ところが、公立認定こども園の建設業者を決定し、お金を払う契約まで議会に提案をしている。

破たんした計画に数字のつじつま合わせでごまかし、市民には矛盾を押し付け、建物には税金を投入することは、中止をすべきである。

 

ゆっとこシリーズ 水着は死語

[2017.8.27] -[活動トピックス]

私にとっては、水着が死語となった。

久しく見ることのなかった水着…。

夏も終わりの今、長女が水着を買いたいという、海に行くそうな。

売れ残りの安い水着を買ってきたが…。ビキニですか…。

お父さんの許しを得ることが出来るか見てもらいなさいとしか言えなかった。

私の過去の水着はどこにいったのだろう。そもそもはいるのだろうか?

仕事で頭がいっぱいで煮詰まってくると、かえっていろんなことを考える。

くだらない…。

体が4つ欲しい理由 ゆうこのゆっとこシリーズ

[2017.8.26] -[活動トピックス]

この前の会議で、「柏原の選挙の取り組みと、8,9月の党作りと、9月議会の取り組みの3つについて」を発言しました。

「体が3つないとやってられないではなく、3つやるんだと決意してこそ力や知恵がわいてくるのでは。」と。

ところがその後、体が4つないと足りないことが判明しました。

家に帰ると、まだまだ夏休みで家にいる時間の長い子供たちが、「お母さん、靴下どこー。」「お母さん、お姉ちゃんがお菓子食べた。」「お母さん、これ見て!。」

うるさいのなんの。

余裕があったら相手もできるが、余裕がなく頭がいっぱい!

やっぱり体が4つないと間に合わない・・・。

9月議会が始まっています。

今回の議案では、公立認定こども園の整備に関して、新設3つ(志紀・南山本・東山本)の建物の建設について業者が決定し、お金を払ってよろしいですか?という契約案件が提案されています。

まさに認定こども園計画の大詰めを迎える事になるのですが、現在調査をしている段階でも、重大な問題店が次々と明らかになっています。一言「もうやめよう。こんな無茶苦茶計画。」

契約案件なんかよく出してこれるなあ・・・。

唐突に出てきた龍華跡地の社協による公私連携型認定こども園予算も驚きの一言

その追及は、9月5,6,7の個人質問でおち議員が行います。(日程お知らせします。)

また、今回の個人質問は、私は9月5日の午後2時頃から「平和と商業活性化」で質問をします。

特に今回初めて取り上げるのは、戦争の記憶、資料、史跡をどのように次世代に残し、伝えていくのか…。今回の質問にあたって、長年戦争展を企画してきた方への懇談や「八尾の戦争史跡について本を書かれた方へのインタビューを行っています。

私のライフワークになるかもしれません。

それと西武の後に新たな商業施設がオープンすることになるのですが、それにあたり八尾市が税金を投じ公的支援を行う予算が9月議会に提案されているのですが、問題点を追及します。

まずは、9月5日に谷沢議員から質疑で追及、その後私の個人質問で更に追及となるでしょう。

9月議会の議案や個人質問・請願について、おってお知らせします。詳しく。

9月2日(土)18時半からやお子育て市民フォーラム 「子どものための音環境を考える」

[2017.8.26] -[インフォメーション]

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9月24日に八尾柏原地区赤旗名人戦、囲碁将棋大会です。

[2017.8.26] -[インフォメーション]

  1. 赤旗名人戦第54回囲碁将棋大会
    八尾柏原地区大会
    9月24(日)午前十時開会
    八尾市生涯学習センター
    (全国大会は11月11、12です。)
    初心者から強豪まで誰でも参加ok❢!
    大人1500円 高校生以下1000円 昼食代込み
    申し込み、9916115日本共産党八尾柏原地区委員会
     
    詳しくは、日本共産党のHPへ 

被爆体験を聞く 忘備録

[2017.8.20] -[活動トピックス]

原本は「語りつぐ八尾の戦争体験」第2集 やお平和のための戦争展実行委員会でのp10『「水、水…」と倒れた友』

 

団ニュースの特集記事のために、再度聞き取りらせていただきました。

そのお話をもとに、当時の状況をさらに調査してみました。

7月に当時住んでいた呉で空襲にあう。当日学徒動員の夜勤で空襲の直撃は逃れられるが、惨状を目の当たりに。同級生の多数が死亡。

しばらく仁方駅に寝泊まりしながら働いていたが、さらに駅の仕事を覚えるようにと、広島市内の牛田の国鉄の教習所に7月末に1人で派遣をされる。

各地から集まってきており、知り合いは無く、食事も満足に無い状況で、大豆の搾りかすの味噌汁に具があったと思ったら、飛び込んだハエであった。

みんな空腹で元気なく、黙って座っていた。

まわりのことは全く分からず、観音町の孤児院の陸軍練兵場にやりつきの訓練に行ったり、比治山に走りに行ったり、太田川で泳いだ記憶はあるとのこと。

8月6日に被爆。当日、当時間、牛田の教習所、寄宿舎の2階で日記を書いていた。

原爆手帳には2.3kmとの記述。

原爆資料館で調べてもらうと、国鉄の教習所についての記述がある文献がありました。

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さすが原爆資料館!

『この怒りを 被爆60年特集 国鉄労働組合』p64から

なを、この原本となる資料は、昭和51年に全くの偶然から、別記「空襲被害状況」の貴重な一冊の資料が31年ぶりに広島鉄道病院で見つかったということです。

この資料は原爆の日、8月6日から2週間の広島鉄道教習所の状況が生々しく綴られているそうです。ザラ紙48枚、当時の状況、とくに入所中の書くか生徒名および救援作業内容が克明に記載。その一部を抜粋し掲載しているとのこと。

(注 国労広島被対協)

『この怒りを 被爆60年特集 国鉄労働組合』p64から

広島鉄道教習所長が鉄道総局勤労局長にあてた広島空襲繊細状況報告より

一部抜粋

 「当向島教習所ハ前夜ノ警報発令ニヨリ・・・位置が爆風中心ヨリ距タリタル為、屋根、戸小破、窓ガラス約3分ノ一ハソン・・・市内、牛田、白鳥、大芝等分教所相当ノ被害ヲ生ジタリ。」

建物被害状況の資料によると牛田は教室と寄宿舎は全壊となっています。

死傷関係は生徒と職員の死亡・重傷・中傷・軽傷・行方不明など書いてありますが、数字が読み取りにくいのでよくわかりません。

その中に、牛田教場という報告。

記述がカタカナなので要約を。

広島分教所女子電信科生徒および広島管理部開催の女子駅員講習生を収容していた。

校舎倒壊にために生徒の相当の死傷者発生。

この死体発掘および倒壊校舎の取り除く作業のため、3日間に一日平均38人が出勤。

作業の生徒の多くが炎天下のため疲労はなはだしく下痢患者が続出。なかには帰省・静養が必要な生徒も発生。

 

場所は、「被爆50周年誌 核兵器廃絶を願って 牛田ニュース」での牛田の教習所での証言をされている方の被爆した地点を記した「牛田町見取り図」があって、そこに当時の南町区の付近が場所として記されていたので、そこを参考にしました。(現在の牛田南2丁目付近)

現地に行ってみたのですが、全くの住宅地になっており、どこにあったのかは、よくわかりませんでした。

周りの家の方にも何人かおたずねしましたが、わからないということでしたが、あの高い建物が昔そうだったのではないかという話もありました。

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このへんか?わからない。

被爆体験をされた方は、倒壊した建物からその日のうちに救出され(海老反りになって立ったまま亡くなった友人が目印となって)、1週間ほど、青天井で、その地で寝泊りをしたそうです。

夜には油を使って死体を焼き始めていたそうです。その後、現地は死体の掘り起こし作業に忙しく、おにぎりの配布などがあったが、かまって貰うこともなく、1週間後には、母親の姉の実家である君田村に向かって芸備線に沿って歩き、途中で「骨だけでも拾いに」と広島市内に向かっていた母親に出会ったということです。(8月14日)

 

追記 1

なをこの被爆者の方を含め、牛田の教習所で被爆されている方の複数の証言の中で、8月6日の被爆直後から夜までの間に、頭上を米軍の艦載機(?)偵察機(?)が飛んでいるのを目撃されています。逃げまとったということです。

低空を飛んでおり、はっきりと飛行機が見えたということです。

そのことについて、原爆資料館の職員の方にお聞きしました。すると・・・。

「原爆投下部隊」という本で、攻撃時刻の6時間後までは一般の米軍機は半径50マイル(約80km)以内に立ち入ることは禁止されていたが、写真偵察機だけは立ち入りが許可されていて、2機の写真偵察機(任務377番、378版)が、攻撃機離陸の4時間後にティニアン基地を発った。キノコ雲も撮影しているということです。

沖縄の第6写真軍団の写真偵察機も広島上空に飛来し、原爆投下後の市街地を撮影しています。(8月7日撮影米空軍歴史資料室)

 

被爆直後、少なくとも4時間以降は写真偵察機が被爆地上空を飛んでいるようです。爆心地付近は煙で暗くて近寄れなかった可能性は高いですが。

牛田上空は十分に可能でしょう。

しかし、この時間帯の牛田では、被爆証言によるとまさに惨状がおきていました。

そんな様子を撮影した米軍の写真は未だでてきていません。

学生の頃、広島で被爆者の方が、「米軍機は被爆直後に市内上空を飛んでいて、あの惨状を上空から低空で撮影しているはずだ!」と言われていたのを急に思い出しました。

誰か研究者の方や平和活動家の方など調査されているのでしょうか?

気になるところです。

 

追記 2

牛田の国鉄の教習所があっただろうところの近くに牛田公園があり、原爆の牌が残っています。

原爆資料館で見せていただいた「牛田町誌・牛田ニュース」によると

牛田町の家屋被害は、全壊が30%、阪堺が66%、小壊・無事は4%ということです。

その後も牛田には被爆した人々の避難が続き、8月末には牛田の人口の2割が増加、食料不足はますます深刻な有様になったということです。

この牛田公園は、急きょ火葬場と化し、たくさんの人が焼かれたということです。

山隅衛さんという方が、その時にこの混乱の中で牛田で息絶えた人を大八車に乗せ、火葬場へと化した牛田公園に運んだ人がいて、その人ののことを歌に読んでおられます。その歌が当時の状況がよくわかるので、紹介したいと思います。

    世話好きの清水のおじが日ごと夜ごと

           やきたる屍(かばね)6百を越(ママ)ゆとふ 

 

この公園を見て行きたかったけど、一緒に現地に行っていた、末っ子の体調と元気が限界だったので、バスで広島駅に向かいました。

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 甥っ子におんぶして移動中の末っ子。頼りになる甥です。

その後、JR広島駅の救護室で吸入をさせていただきました。ありがとうございます。おかげで大阪までこだまに乗ってゆっくりと体調も良く帰ることができました。

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お盆の帰省の影響で、”ひかり”も”のぞみ”もものすごい混みようだったのですが、”こだま”はこのとおり。

岡山で乗り継いで4時間かけて帰ったけど、あの混雑を思うとベストな選択だった。新幹線の岡山駅のホームのうどんももっちもちで美味しかったし。

 

私の自分のための一日だけの夏休み。日帰り広島の旅でした。

 

 

 

 

 

 

核兵器禁止条約国連会議・憲法9条改憲問題の学習会 講師 笠井亮国会議員

[2017.8.19] -[活動トピックス]

核兵器禁止条約の国連での会議に参加をした時の臨場感あふれる報告を聞かせてもらえました。

最後の最後まで採択がどういう形で行われるのか予測がつかなかったこと、採択後も皆立ち去り難く、次々とスピーチが始まり、最後にヒバクシャであるサローさんの発言でみんなの思いを代弁した発言で締めくくられた。そしてまだ会場にとどまった人たちが交流を深めていたことなど。

原水爆禁止世界大会の到達点がこの条約にふんだんに反映されていることや、平和首長会議など草の根の運動も紹介がありました。

日本はもはや「橋渡し」ではない。日本は、他の核兵器保有国と同様に違法兵器にしがみついている国の一員となっている。

橋渡しの資格も立場もない。と会議の場でも指摘があったとのこと。

続いて、憲法9条の値打ちを守り抜くことについて、内閣発行の「新憲法の解説」戦争放棄の部分(1946年11月)の紹介がされました。

第二章 戦争の放棄

抜粋

一度戦争が起れば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまふ。原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、又は逆に戦争の原因を収束せしめるかの重大段階に達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺するであろうと真剣に憂へているのである。ここにおいて本章(日本国憲法第二章)の有する重大な積極的意義を知るのである。

 

そして、枢密院における幣原首相の趣旨説明部分(1946年3月20日)にも原子爆弾のことが触れらています。

戦争を放棄し、軍隊も放棄した世界でも唯一の日本国憲法は、人類史上初めての原子爆弾の惨禍と切っても切り離せないことが紹介されました。

それは、同時に核兵器禁止条約にサインする政府を作ることと、憲法9条の改憲阻止は一体であることであると報告があり、なるほどなあと思いました。

じっくり聞かせてもらいました。

 

団ニュース特集記事”今あなたに伝えたいこと”被爆体験・核兵器禁止条約・平和への思い作成中。明日は広島へ。

[2017.8.15] -[活動トピックス]

谷沢議員(妥協を許さない鬼の編集長)と私(思いつきはするが文章が書けないアシスタント)で、団ニュースを作成中です。

今年は、核兵器禁止条約が採択された歴史的な年でもあるし、平和の特集記事を作ろうと決めました。

まず、八尾市への平和事業の聞き取り、非核宣言都市としての取り組みの強化の申し入れ、平和首長会議に出席した思いの聞き取りなど・・・。

そして、八尾市在住のヒバクシャの方から、子育て中パパと学生さんへ「今あなたに伝えたいこと」という特集記事を対談形式で作ることにしました。

まず、被爆者の方からの聞き取り。過去にも語り部をされており、記憶は鮮明です。過去の語り部での文章も残っています。

呉の空襲で命からがら逃げ出し、同級生はほぼ死亡、それから広島市内で原爆に。”この世界の片隅に”の映画の時代背景とほぼ同じなのでそれをイメージしながらお聞きしました。(なんと奇遇なことにお名前もすず子さん!)

だから、すず子さんでお話を進めていきます。

すず子さんは、三次市で生まれました。お父さんは刀自の仕事をされていましたが、体調を崩して呉に引越し、そこで学徒動員で勉強もできずに奉仕活動(仕事)をしていたそうです。

今日は大空襲があるらしいと噂が流れ、お母さんがみんなで一緒に死のうと言いましたが、軍国少女だったすず子さんは、「死ぬなら職場でと。」学徒動員の夜勤に行ったそうです。

その日やはり呉で空襲があり、自宅にいた同級生や町の人は、防空壕に殺到、入り込んだものの火が回り、ほとんど亡くなったそうです。井戸に入って、防火槽に頭を突っ込んだまま。

すず子さんは、職場で命拾いをし避難したといいます。多くの死体も見ました、初めての経験で無我夢中で逃げたといいます。

被爆体験を聞くつもりが、すず子さんは、呉の空襲の方が印象が強かったようで、長い長い話をしてくれました。

その後、しばらく仁方という駅で寝泊まりしながら働いていたそうですが、7月末にもっと仕事を覚えて欲しいということで、広島市内の牛田の国鉄の教習所に行かされました。寄宿舎です。

そこで被爆体験をします。

この時も前日から明日は新型爆弾が落ちると噂があって、その日も朝からみんな好きなところに行きなさいと言われたそうです。

しかし、すず子さんは行くところも無く、二階で日記を書いているところ被爆。

その建物は(2階建て)全壊したそうです。その倒壊した建物に閉じ込められたものの、近くにいた友人が「水、水〜」とさけんで海老反りになりそのまま亡くなったそうです。その子が目印となって、すず子さんは発見され、助け出されたました。

一階は完全に押しつぶされていたので、一階にいた人はまず助かっていないのではないかとすず子さんは回想します。「火の手も回ってきたしね。」と。

記事にするために場所を特定したかった私は、牛田の国鉄の教習所でインターネットで検索、出てこない〜。しかし、まったく同じ被爆体験が2件ほどヒット。同じ建物にいてた人ですねと驚き。

府立図書館で調査をしてもらってもわからず。広島の図書館か原爆資料館に相談したほうがいいかもと、さっそく連絡。

するとさすが広島!牛田の教習所の場所は特定できなかったものの、教習所の所長の記録証言があって、記述があるとのこと。(国鉄労働組合の文章の中で)でも文章は現地に行かないとコピーできない?!

ということで急きょ広島に保育所お休み中の末っ子と甥っ子で明日行くことにしました。唐突に。

この教習所は出たり入ったりの人が多く、誰がいてるのかはほとんどわからなかったそうです。すず子さんも7月末入ったばかりで被爆。うっすら覚えているのは、比治山に走っていったとか、太田川で泳いだとか、観音というところがあったとか、近くに孤児院があったとか・・・。

証言記録でしか記録が残っていないというのも寂しいですね。被害は甚大だっというのに。

話は続きます。倒壊した建物から助け出されたすず子さんは、それから避難を始めます。しかしそこは地獄でした。淡々と悲惨な情景を語るすず子さん。

聞いていた青年は、「私は、死を身近に感じたこともまだないので、当時どんな思いでしたか?」と聞いていました。

「そのときは、お国のために死ぬののだから、次は自分の番だと思っていた。冷静に受け止めていたとお思う。心がなかった。」と言われていました。

避難しているその時、爆撃機が上空を飛び撃ってきたというのです。未だ熱い地面に顔を埋めかがみ込んだといいいます。

原爆投下直後に爆撃機が襲ってきた?!そんな話は聞いたことがないなあ、何か記録があるのかなあとインターネット。すると朝日新聞の被爆証言の方が全く同じ体験をされていました。その方も牛田の教習所で被爆、逃げる途中で頭上を機銃掃射の爆撃機が通って、もうだめだと思ったと書いてありました。

B29が原爆投下をした記録や軌跡は米軍の記録にもありますが、その投下直後の被爆地で機銃掃射がなされていたという記録はありません。(私の調べた限りの不十分ですが。)そんなこともあったのだろうか。だとしたらひどい話だなあ・・・。明日原爆資料館に行ったら聞いてみよ…。と思っています。

今回、団ニュースを作らなあかんという仕事もありましたが、わたし的には、戦争体験の聞き取り記録を私なりの視点で作っていけたらなあと思っています。

特に、被爆体験は、現在情報収集や科学的分析の発達で、被爆体験とそれを重ね合わせることでよりリアルに実感を込めて次世代に伝えていくことができるのではと考えています。

その一歩として、出来るところから始めよう。まさか学生時代に過ごした広島の街にまた縁が・・・。

これが終わったら、夫のお母さんの満州引き上げの話を聞き取りをしなければ…。

明日の広島行きの弾丸ツアー・wtih 末っ子・甥っ子との道中記はおって報告しますねー。